アメリカの中産階級論や消費社会批判が好きで、リースマンの『孤独な群衆』を毎日少しずつ読んでいる。そこにでてくるのは、「他人指向型」と言われる、自分自身のなかの価値基準ではなく仲間の規範や趣味嗜好、評価によって行動し、仲間からの承認を求めて行動するという、現代的な人間の類型だ。
こんな21世紀らしい人間をよく20世紀中盤に描けているなと思っているところで、ちょうど『アメリカン・サイコ』を観ることができた。
リースマンは他人指向型の人間モデルを都市の中産階級に見出している。
この映画の主人公であるベイトマンはウォール街のエリートだが、まさに他人指向型モデルの極限のような存在だ。
この作品の存在をいつ知ったかは覚えていないが、何かの本でウォール街のエリートが名刺の微妙なデザインの違いを巡って熾烈なマウンティング合戦を繰り広げるエピソードが、肩書や実際は無意味に等しい差異で自尊心を保とうとする悲しい人間の性の代表例として指摘されていたことがきっかけだ。まさに、名刺という自分の存在を他者に知らしめるためのツールで張り合うという他人指向的な場面だろう。
一般的に、この作品はエリートサラリーマンの裏の顔というような紹介のされ方もするが、そもそもベイトマンはエリートなのだろうか?
彼自身はハーバード大学のビジネススクールを卒業後、投資会社で「バイスプレジデント」(金融系だとマネージャーぐらいの職位らしい)を務めるという非の打ちどころのないキャリアだ。
しかし、その実態は彼の父が会社の経営者でどうやらコネ入社しているに過ぎない。
しかも、オフィスのなかではポルノ雑誌をみたりレコードを聴いたり実業務に携わっている様子もなく、同業者の社交クラブでもレストランの予約をしておくように言いつけられる下っ端だし、どうみても肩書以外にエリート要素はみられない。
おまけにラストシーンで顧問弁護士にも人違いをされたり、馬鹿扱いされている。
20代にして社内ニートとしての盤石な地位を築いており、このポジションを気楽に享受する生き方もできるだろう。
しかし、おそらく自分がだいすきで入念にスキンケアをしたり自分の筋肉を鏡でみとれながらコールガールとの情事にふける彼は、そんなアホボンとしての生き方を受け入れられないに違いない。
だから、馬鹿にされても社交クラブにでかけるし、きっと周囲に承認されず座っているだけが仕事の自分を認められないに違いない。
そして、その暇な時間で自分のスケジュール帳に猟奇的な殺人の絵を描き、自分がシリアルキラーであることを夢想する。まるで、自分だけが特別な人間であると思う中二病患者のように。最終的にその手帳の空想と現実が区別できなくなっていく。しかも、彼のスケジュール帳は、おそらく仕事の予定ではなく、同業者の集まりや女性たちとのデートで塗り固められているのだろう。
そもそも彼の空想には「自分より優れた同業者」を嫉妬により殺害するパターンとホームレスやコールガール等、「自分が優位にたてる」人間を殺害するパターンがある。
どちらも自分が無用な存在ではないかという彼自身への疑念を掻き立てられる存在なのではないだろうか。ホームレスやコールガールの殺害は、能力主義的な「役に立たない人間」は生きている価値がないという価値観ではなく、むしろ自分も彼らのように「役に立たない存在」であり、「同業者のお笑い種なのではないか」と感じさせる、彼自身のコンプレックスを映し出す鏡なのではないか。
そう考えると、主人公ベイトマンは、異常なウォール街の狂気によりシリアルキラーになったというよりも、エリートのなかに突如放り込まれて理想と現実のギャップに苦しみ、空想に逃げ込んだ富裕層出身の若者という気がしてきて、どちらかというと哀れみの感情を抱いた。